今生はBL道楽

商業BLコミックを消費しつづけている。

被害者、加害者あるいは異常者という属性をもつことになったひとりの人間です/はらだ「にいちゃん」

一か月以上間があいてしまった…おひさしぶりです! 師走の走りっぷり、やばいですね。もう気分は大晦日! 

今日はえるれさんからリクエストいただきまして、はらださんの「にいちゃん」を紹介します。 

にいちゃん (Canna Comics)

にいちゃん (Canna Comics)

 

 

あらすじ

幼いころ、近所で仲良くしてくれていた「にいちゃん」。

その「にいちゃん」に手を出されそうになったことを両親に知られ、高校生になったいまも親からの強い庇護のもと生活をしているゆいだったが、どうしても「にいちゃん」への執着を捨てられずにいた。

あてどもなく探し続けていたゆいと、「にいちゃん」の再会は唐突に訪れたが、「にいちゃん」は記憶の中の優しいひとではなくなっており……。


「普通」からこぼれていって、でもまだ社会の側からの証明がほしいにいちゃん

作中で行われていることは明確に性暴力や小児性愛とされるものなのだけれど、当事者にとってはそれは生きている限り継続する問題としてあるし、社会的な処理が行われたとしても「はい、この話はもう終わり」とはならない。わりとはらださんの作品ってどれも「暴力」と「愛」を真ん中に据えて描かれることが多いのだけど、今回は社会からの暴力、というテーマもある気がしました。なので、自分が社会の側に立って読んでしまうとこのお話をどう語っていいかわからない。

このお話は構造が複雑で、ゆいは被害者でありつつも、にいちゃんと関わり続けることで加害者になっていく部分もあるんですね。それが「愛の証明」である、といわれれば、言葉を濁すしかない部分もあります。にいちゃんも過去を辿れば社会から見れば被害者であるわけで(当人は子どものころに出会ったおじさんとの愛の証明をずっとし続けようとしているわけなのだけれど。そして「大人のおじさんを愛している」という気持ちをもまたおかしいものとして処理されたり、ようは「被害」にあったからおかしくなったのだ、と言われたりもしてきたわけで。)。

ゆいの行動とにいちゃんの行動は螺旋状に重なり合って存在していて、外から見た人間がそれをジャッジすることがとてもむつかしい。「社会」としてそれをジャッジし、裁くことはできるだろうとは思うけれど、でもそれをしていいのか?というか、どこまで人は人を裁くことができるのか?

にいちゃんは「普通」に戻されるために、「家」という構造のなかで「善意」という顔をした暴力に晒されたりする。そしてゆいも自ら「普通」にとどまっているように見せ続けているような部分もある。社会の側が求める「普通」になれない、その「普通」に入れない人間はどこにいけばよいのか。

話としてものすごく多面的で、2人の関係がうまくいったからハッピーエンドみたいな描かれ方はしない。にいちゃんにとってゆいは救いになった部分があるけど、2人で世界は完結しないし、どんなに家族や社会との関係を手放したとしても、つながりをまったくのゼロにはして生きてはいけない。社会に関わりながら、「普通」になれない部分を個人としてどう存在させて生きていくのか。そんなことを思う一作です。

わたしはにいちゃんが最終的にゆいに求めることが、けっこうなんだろ、社会の側から『「正しい」人間と認められたい』、みたいな気持ちのように思っちゃって、すごく苦しくなりました。もちろんそういう気持ちを持つことは当然あるだろうと思っても、どこまでいっても全てを肯定される社会ってあるんだろうかと思ってしまい。ゆいもそんなににいちゃんの生を引き受けてしまって大丈夫なんだろうか。ゆいはある一定で線を引くタイプのひとなので、賢く立ち回るのかもしれない、はやく大人になって力を手に入れて、という風に言っちゃうのも勝手な願望かな~~~。

はらださんの暴力の多層的な捉え方にいつも感嘆してしまう。こんな風に描くことってなかなかできないんじゃないのかなあ。

 

 

歯切れの悪いレビューになってしまった…「にいちゃん」では舞子ちゃんっていうキャラクターもすごい肝になっていて、それは読んでからのお楽しみ。わたしは舞子ちゃんが好きです。